

纒向遺跡の現地説明会で発掘調査の成果を解説する石野博信さん=平成11年、奈良県桜井市(ふたかみ史遊会提供)
江戸時代からいまなお続く邪馬台国の所在地論争。歴史ロマンあふれる論争の盛り上げ役として知られるのが、畿内説を唱える考古学者の石野博信さん(87)。邪馬台国の最有力候補地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の最初の調査員だ。半世紀前の昭和46年、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)から出向していた奈良県庁で開発計画を知り、調査の必要を訴えて自ら発掘に乗り出した。若き日のすさまじい考古学熱が周囲を動かした。
前方後円墳が日本で最初に出現した纒向遺跡は、倭国女王・卑弥呼(2世紀後半~248年頃)の活躍期と重なる。平成19年に3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡が見つかったことで、「大和説(畿内説)」が盛り上がった。
古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され、国の始まりを知るのに極めて重要な存在だ。しかし半世紀前、重要性の認識は薄かったという。
「当時奈良県庁の遺跡調査室に出向しており、纒向に炭鉱離職者のアパートを建てる国の計画が持ち上がったことを知りました。上の人に調査をしたいと相談すると、『やめとけ、調査はいらん』と」
そこで、建設事業担当者を説得しにいった。
※省略
しかし、調査では期待した集落の遺構は出ず、川の跡と土器片がでてくるだけ。このままで遺跡調査は中止されるかもしれない…。
「研究所のそばに県の図書館の分館があって、万葉研究家の吉岡義信さんがおられ、柿本人麻呂の万葉歌がぴったり合う場所だと教えてもらった」
《巻向の穴師(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む》
歌に詠まれた巻向川のせせらぎはここだと発表したところ、「万葉の川発見」と報道され、次の年からも調査ができるようになった。「このときばかりは神の導きを感じました。吉岡さんは纒向遺跡の命の恩人。あそこに銅像を立てるべきですね」
■発掘現場で恩師と出会い
半世紀前、粘り強い執念で、後に邪馬台国畿内説のシンボルともなった纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の存在を世に知らしめた石野博信さん。考古学者としての原点は、出身地の宮城県渡波(わたのは)町(現在は宮城県石巻市に編入)で過ごした少年時代にさかのぼる。
※省略
奈良に来て2年目。纒向遺跡という「運命」の発掘調査に携わったのをきっかけに、纒向を中心とする2~3世紀(邪馬台国時代)の考古学研究がライフワークとなる。
橿考研を定年退職し、初代館長に就任した奈良県香芝市二上山博物館では、全国から著名な考古学者や研究者を呼び、自らが司会を務める「邪馬台国シンポジウム」を開催し、所在地論争を盛り上げた。
シンポは博物館とその友の会「ふたかみ史遊会」の共催。平成13年7月の「邪馬台国時代の近江と大和」というテーマを皮切りに、29年3月の「魏都・洛陽から『親魏倭王』印の旅―楽浪・帯方・三韓から邪馬台国へ」まで17回に及び、2日間で500人以上が参加する恒例の考古学イベントとして全国に知られた。
邪馬台国の所在地論争では畿内(大和)説か九州説かをめぐっていまだに決着を見ないが、石野さんは「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」と話す。
「土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い」。邪馬台国時代の列島の中心地が大和だった証拠は積みあがっている。「でも決定打がない。わからないから面白いんだよね」
寝食を忘れ、発掘に没頭したという若き日の面影がよぎった。(聞き手 川西健士郎)
◇
【プロフィル】いしの・ひろのぶ 昭和8年、宮城県生まれ。関西学院大文学部卒業。関西大大学院修了後、奈良県立橿原考古学研究所副所長などを歴任。奈良県香芝市二上山博物館初代館長(平成4~23年度)、兵庫県立考古博物館初代館長(19~26年度)。『邪馬台国の考古学』『古代住居のはなし』『大和・纒向遺跡』など著書多数。奈良県桜井市纒向学研究センター顧問を務める。
産経WEST 2021/7/9 16:00
https://www.sankei.com/article/20210709-UHODKYA3RBPL5LUKMFBYBZMMYM/
2021/07/10 19:18
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/n0d6db7cc0b70
引用元: ・【歴史】邪馬台国「大和説」、最有力候補地「纒向遺跡」調査の考古学者・石野博信さん「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」 [樽悶★]
九州から大和は少ないってことは、
勢力圏ではなかった
それは日本書紀にも熊襲征伐として出てくる
また南九州の隼人征伐もしてる
だから大和政権は奈良大和であってる
邪馬臺国ではないだけ。
その後、
筑紫と吉備と大和と毛野と越の連合王権だった
邪馬臺国は筑紫に吸収されたか滅ぼされた
纏向は四世紀の古墳。卑弥呼ではない
やっぱそうだよね
卑弥呼の国が大和なら、日本書紀に出てこないのおかしいし
中国からしたら日本列島に乱立する小国の違いなんて分からんし
邪馬台国って別に今の天皇家とは関係ないから別にどこにあってもいいと思うの
【基礎知識3】
~ 中国史書に記された女王国(邪馬台国)の位置 ~
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里」
韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里
・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ
・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島
>>1里=約75mと推測される
■見解
女王国視点で紹介される倭の国々の方角が「北・東・南」ということから、
そこは西の端すなわち九州島に位置していることが伺える
■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
これも魏志倭人伝と同様に1里=約75mと推測される
女王国範囲であり、邪馬壹国(邪馬台国)までの
距離ではないよ。
なんで専門家がいろいろ考えてその結論にするのかな
西暦250年で卑弥呼が大和地方に居たのなら文字と紙ぐらいは残ってたろ
大王の墓しか残ってないなw
ちなみに九州には邪馬台国以降は大王の墓はない
いつも思うんだが それが分かったところで何が偉いの?
それ邪馬台国ともう関係ないだろw
魏志倭人伝の邪馬台国=ヤマト国でもういいだろ
どう考えてもそれが自然なんだしさ
それが不自然だから長い論争が、、w
その魏志倭人伝しかない文献の読み解きで喧々諤々してたのが、
考古学的な実際のブツ発見が近年の研究でどんどん出てきて畿内説へ傾きまくってるのが今ココ、だろ
まだ卑弥呼本人の骨が出てきてないもん!ぐらいしか後はない
マキムクと邪馬台国は今のところ何の関係もない。
あくまでも畿内説が前提の有力候補ってだけ。
中国の専門家は九州言うてた
関西はないわ
日本各地の遺跡発掘による土器の研究が進んで、古代の流通というか交易のやり取りみたいなところが結構わかってきてるからな
畿内のヤマトにでっかい都市があって、その都市と各地がモノや人のやり取りをしてた様子が浮かんできてる
九州に統一王朝があったのなら、九州周辺にその文化や土器が伝播してるはずなんだが
そういうのが無いんだよね
統一王朝を探してるんじゃなくて邪馬台国を探してるんだよ
大国・魏の官僚、外交官がわざわざ海越えてやって来て、陸行何日水行何日とかして、
その国の一番の都とは関係ない邪馬台国って場所に行って帰る、とかは無いと思うわ
その国の首都に行ってトップに会って親書渡す、のが仕事だったと思うよ
共立王なんだから
自国の邪馬壹国にはいないて事。
記紀にあるように天皇の都だから。
違うじゃん
鉄鏃も出土せず、騒乱の痕跡もないのに大和だって?www
大和朝廷と邪馬台国は別やろ
大和朝廷ならちゃんと歴代天皇に卑弥呼入ってる
天皇より上位の巫女とかない
天皇自体が祭司だし、自分の間違いから抜け出せない典型
それは思うよね。卑弥呼が倭王なら、天皇家は崇神あたりだから、王が二人になるから別物かもね。
やっぱ奈良だよな
九州は無理筋
読むのめんどい、だれか産業でまとめて
遺跡という物的証拠が有っても根拠もなしに否定しちゃう人間はただのアタオカ
出土品見ると100年くらい後のものだろ
意味を問う人って説明したところでわからないよね
かわいそう
何かを闇雲に調べ、調べた結果をまとめるだけが研究じゃない
結果を予想し、その予想を証明するための研究だってある
議論バトル
小田急もな
小田急のイメージの方が強いな
相鉄も都心直通になったから大和も便利になったもんだな
ハプログループNの。
日本のNOがNとOの大元やから安心しろ(笑)
ノンフィクションなのか検証しないか
「三国志」がフィクションのはずがあるめぇ
陳寿によって書かれた一級の史書
でも日本には行ったことないでしょ?
三国志の魏書中の烏丸鮮卑東夷伝倭人条な。
三国志は中国の正史で、以後の正史でも東夷伝の記述が再録されている。
フィクションと思うのが間抜け。
ただ、史書は史書でしかない。
牛や馬はいないがキジと猿がいるなんて書いてあるんだからフィクションはありえないぞ
どっからどう見ても、似てるんだよね……w
おっちゃん?👴
奈良で年中裸足はないな
冬めっちゃ冷える
縄文時代は今よりも気温が高かったっていうが、
九州でも冬でも生野菜って海が近い平地だな
鹿児島は土地が火山灰だから微妙
九州に住んでみろ。
冬は無理だ。
魏志を書いた奴、夏の記録しか見ていない。
見て書いているというより聞いたことを書いている。
九州と関西の冬の温度差なんて誤差程度
上半身裸の男が多く描かれている浮世絵を見てゴーギャンは日本を熱帯の国と思っていた
19世紀の人間ですらその程度の認識だったんだから3世紀の記述をそのまま鵜呑みにするのはさすがに
卑弥呼=神功皇后
倭国大乱=三韓征伐
時代的に合致するの?それ?
台与は?
邪馬台国(やまとのくに)=大和国(やまとのくに)
卑弥呼=神功皇后
倭国大乱=三韓征伐
台与(とよ)=神功皇后の妹、豊姫(とよひめ)
ちなみに日本書紀でも興台産霊命(こごとむすび)で台=ト
はい時代が会いません。
間抜けはもう少し頑張りましょうね、
無理か?
卑弥呼は天照大神だよ
弟王はスサノオ
>卑弥呼は天照大神だよ
>弟王はスサノオ
「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3兄弟。
「卑彌呼宗女」の「壹與」とは、神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波
倭国大乱はおおよそ2世紀、三韓討伐はそれがもしあったとして、200年前後だから時代が違う。
投馬国=中国地方全に及ぶ巨大王国
そもそも架空なんだっけ?
天皇家の系譜では数少ない創作かもって方だからな、発見はまだよ
神武天皇寮は橿原神宮じゃないの?あそこが初代天皇の発祥地とされてるけど
明治時代に建てられた橿原神宮がどうした
髭面で集団生活してんの想像してこんな夜中にわろてもうたわ
壬申の乱の記述に神武天皇量の事が出てくる。
当時は誰でも知っている場所だった。
ということは神武は実在。
実在しない人物を創作して、その墓まで作り、
さもみんなに「ここを神武天皇陵墓と言うことにするのだぞ、分かったか!」と、広めていた謎の集団がいたという事になるからね。
そんな面倒くさいことより、普通に神武天皇が実在したと考える方がすんなりする。
実際にいるが
記紀の内容とは違うかもね?
架空は戦後の自虐史観的歴史教育で植え付けられたこと
つーか天皇ってどっから出てきたんだよ
高天原から天孫降臨で高千穂峰に(ry
その神話意味不明だわ
世界で天皇だけ神話の人なんだよな
天皇の出自むっちゃ怪しいよね
どうやって日本統一したのか知りたいわ
そんなに強い?凄い?なんかあるんだろうけど
今の天皇みてたら、闘ったたら一撃で倒せると
仮に天皇が昔本当に凄かったらご先祖様泣いてるだろ
そもそも欠史八代(無関係の三輪政権)を形式上の先帝にしないと奈良を支配できない崇神の怪しさが凄い
人に威張れるような血筋が崇神にはほぼ無いのだろう
中国人か朝鮮系倭人かもしれないね
ヤマトの由来に決まってるだろ、奈良しかありえない、原点は九州の可能性っめも遷都したんじゃね
今の所AfricaのEveさんからというのが定説でしたよね
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657~) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂)
邪馬台国って悪意ありすぎだろ
中華思想ってやつだね
全然悪意などない
邪馬臺の臺は皇帝の居る場所と言う意味
むしろ最高度の褒め言葉
邪馬台国は阿波だった。
神山町は神武天皇が降りてきたことからその名がついたらしいね
「卑彌呼」が隠棲していた所だろうね。
当時の王都は、神山町を下った鮎喰川下流域だ。@阿波
両者とも確信持って答えてるのが面白いなあ、と
なぜ?
現実にその時代に何度も人物の交流があったことが中国の史書からは読み取れる。
お前が納得できないからなんだというの?間抜け。
どこが首都か?分からないだろうね。
今年で戦後体制完全終了だからね(笑)
はじめから考古学的証拠は薄かった
魏志倭人伝の記述しかないんだからそもそもない可能性もあるぞ
さらに取材班は、「邪馬台国」の存在を唯一記した中国の書「魏志倭人伝」を読み解くため中国へ。
漢字学・歴史学など中国の4人の権威に検証を依頼。
邪馬台国があった本当の場所とは…。
そこで導き出された答えは驚きべきものだった!
↑この中国の学者4人が全員一致で九州説だったんだと
邪馬は山の当て字
倭国では各クニから租税を徴収している
その運搬にはおそらく土器が使われただろう
大和が中心なら九州の土器がないのはおかしい
鉄器がないのもおかしい
どこに列島の中心地の証拠が積み上がっているのか
「移動」ってか、「土器そのものの移動」じゃなくて、
「土器の製法」じゃないのかな?
文化的な伝播ってヤツ
土器は重いから、そんなに運ぶものじゃないと思うが
大和朝廷には「土師」って土器を管理担当する役職や一族があったというし
やっぱスレ埋まるのかな?
そこから先は誰かの作り話。
気になるのは計画的に作られた政治的な都市であって行政府みたいなもので庶民が住む場所ではないこと。
普通の都なら中心部に官庁街があってその周りに民家が建ち並ぶはずなのに纒向には後者がない。
元々は田原本町の唐古・鍵遺跡周辺が邪馬台国で洪水により纏向に移動した
あの辺りを発掘すれば遺跡が沢山出て来るだろうが住宅街になってしまったので不可能
田原本町の博物館へ行って見な。面白いぞ
ってモチベーション無しに普通に調査しろよ
思い込みで何か重大な発見を見落とすかもしれないだろ?
卑弥呼が特定の人物を指す言葉なのかそれとも日巫女または日皇子といった
特定の役職・位なのかといったところも議論すべきと思うが。
邪馬台国と大和王朝は同一視していいの?
大和と卑弥呼は相容れない
未だにこういう事を根拠にしているのが邪馬台国畿内説なんだよなあ
> 古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され
これ垂仁天皇のことでしょ?卑弥呼と全然違うじゃん
一方で九州には顔に入墨してる部族が沢山いた
邪馬台国の黥面文身は
素潜り漁をする海洋民族の風習
大和の山の中で素潜りとかありえないよなw
お洒落tatooだったのかもw
黥面文身は実用な
魏志倭人伝より
今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽
今 倭の水人は沈没して魚や蛤を捕るのを好み
入れ墨はまた大魚や水鳥を追いはらう。
日本書紀の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前で
橿原神宮から出土した遺跡が放射性炭素年代測定で約2700年前だからね(笑)
奈良県庁には穢多非人枠がある証拠やな
まあ奈良だと下手に土掘ったら、調査する羽目になる考古物がゴロゴロ出てくるから、
考古物を保護する義務がある公務員でさえ知らんぷりする人間のクズも多いわ
てか奈良に炭鉱ってあったんか?
近隣県にもあったんか?
奈良には炭鉱ないでしょ
地元の奈良に戻ってきた離職者用ってことじゃないの
九州の都府楼跡(大宰府)とかすごいぞ
ブルで押してダンプで全部持ち出して
何一つ見つかりませんでしたで押し通されたからねw
九州に王朝があったら不味い連中が多いらしい
当時農作物と土器しかないしょーもない国だったし
大和だと倭国の首都、まさに倭国の女王の風格ある
そもそも名前が同じなのに何で関係のない九州が割り込んでくる言う話だわな
古墳だっていっぱいあるんだし
奇をてらわず自然な考え方をすればいいだけ
北九州にあった卑弥呼亡き後の邪馬台国を
朝鮮半島からやってきた天孫族が征服したのが天孫降臨
征服された倭の国の姫や武将がアメノウズメやサルタヒコ
後に東征してヤマトを建国したのが天孫族の首長のニニギで後の神武天皇
こんなの手塚治虫の火の鳥の頃からの常識だよ
最古の稲は鹿児島県で出土した約12000年前のものだからね(笑)
神武東征時の日向国は今の鹿児島県+宮崎県だからね(笑)
約2700年前に弥生土器と稲作が広がったからね(笑)
天皇という呼称がそもそも飛鳥奈良で入ってきた中国律令の呼称で
その前は大王だと証拠もある
その大王とのちの天皇家につながりがあるかどうかも
まったくわかってない状況
来年から日本神話から始まり中学歴史教科書が認可されて使われるからね(笑)
日本書紀に則って神武天皇などをちゃんと教育するからね(笑)
日本人再生が始まるからね(笑)
帯方郡(平壌の南)
狗邪韓国(巨済島、海 7千里)
対馬国 (対馬、海 千里)
一大国 (壱岐、海 千里)
末廬国 (海 千里)
伊都国 (東南 五百里)
奴国 (東南 百里)
不弥国(東 百里)
投馬国 (南に水行二十曰)
邪馬台国 (南に水行十日、陸行一月)
1里は何Kmか?
これは簡単なんだ
少なくとも海は確定できる
まず最小単位をみる
海は千里、陸は百里
昔の人はどうやって計ったのかだ
1日の距離なんだな
次に確定してる対馬から韓国までの距離が80km
海千里は80kmとなる
昔の船は時速5kmする
12時間で60km
船の場合、日が昇ってから沈むまでに目的へとたどり着かなければならない
海80kmは限界点
以上のことから日数から里への変換ができる
邪馬台国 (南に水行十日、陸行一月)
これは 海1万里、陸3000里 となる
帯方郡(平壌の南)
狗邪韓国(巨済島、海 7千里)
対馬国 (対馬、海 千里)
一大国 (壱岐、海 千里)
末廬国 (海 千里)
海だけで帯方郡-末廬国 が1万里
邪馬台国 (南に水行十日、陸行一月)
水行十日は末廬国 までと合致する
であるからこうなる
帯方郡─狗邪韓国─対馬国─一大国─末廬国─伊都国─奴国─不弥国
├──────────投馬国
└──────────邪馬台国
自郡至女王國、萬二千餘里
女王国までの距離が1万2千里
邪馬台国 (南に水行十日、陸行一月)
海1万里、陸3000里
1000里違うけど、まま合致する
万二千余里は女王国(範囲である)
邪馬台国までの距離ではない。
末廬国
伊都国 (東南 五百里)
奴国 (東南 百里)
不弥国(東 百里)
7百里、うまった
一通り説明した
普通に読み更に他の記述と合致させていくとこうなる
帯方郡─狗邪韓国─対馬国─一大国─末廬国─伊都国─奴国─不弥国
├──────────投馬国
└──────────邪馬台国
中国語ってのはどう読むかは、なかなか難しい
データの羅列のようなもんだからね
中国人でさえ昔の書物を読むのに苦労してる
で、里と日
これは明らかに原文が違う
よって連続性がないとするのが妥当
故に連続説は、まずない
邪馬台国の大きさの目安になるかな
対馬国 (1000戸)
邪馬台国 (7万戸)
1:70
現在
対馬3万人
九州1400万人
1:450
当時の対馬は発展いていたと思われる
今でいうと国債空港を有していたわけだからね
だからそのことも考慮しないといけないと思う
邪馬台国が滅んだ時期はおおよそ解る
女王国から東夷に変わるんだ
東夷に変わってからは二度と女王国が出てこない
『晋書』
(266年)其女王遣使至帯方朝見・・・・泰始初遣使重譯入貢
(276年)咸寧二年・・・東夷八國歸化
最大30国以上が晋に顔を出してる
九州の30カ国が独自外交をやって大陸に渡っていたんだな
(290年)太康十年・・・・東夷絶遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻
絶遠三十餘國ってのは女王国が変わりに外交をやってた
けれど女王国が滅んだ。或いは連合が破綻した結果、独自外交を始めたんだな
邪馬台国は滅んだ
で、大和政権は滅んだのかい
滅んでないだろ
滅んだ邪馬台国と今も現存する大和政権
これは別物となる
大変失礼かと思うのですが、永遠にコピペして何がしたいのですか?
目的は何でしょうか?
みんながワイワイ議論してるのが気に食わないのですか?
荒らしはやめた方がいいと思いますが、荒らし辞められない?
古代の○○天皇とかいう話が
リアルな歴史のごとく扱ってる時点で
日本古代史なんてファンタジー丸出しなわけ
それなりに倭国もしっかりした国家だったろう
Yahoo!ニュース
@YahooNewsTopics
【大分出土 卑弥呼の鏡の可能性】
https://yahoo.jp/xGCJKX
曹操の墓を発掘した中国の発掘責任者が、大分県日田市の古墳出土と伝わる「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」について言及。邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
畿内と北九州では中国と関連ある遺物のレベルが違うんだわ
こういう事を無視して畿内説を唱え続ける考古学者の罪は重いと思うよ
草
その後、もの凄く海面上昇した時期があった??
溺れ死ぬ位。で、すぐ下がった。ようだ。
大陸の平地部に大量の海水が流れて
海面上昇収まったんだろうね。
当時の科学技術力から見たら邪馬台国は九州が有力なのかな?とは思うが、当時の渡来人の気持ちを考えたら故郷の原風景を持つ奈良県説の方にどうしても傾いてしまう。
じゃあ古代日本に天皇はいないという
説を増強するだけだろ
大瀬戸内平野?!
瀬戸内海に水が入るぐらいの天変地異。
確定してるけどな
学者様が永遠に飯が食えるネタ
結論でないし出す気もないだろん
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ

有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの
免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも一致する
考古学的に見ても文献的に見ても海人族の最大勢力・安曇が伊都王家なのは明白
伊都の安曇族を味方につけて海運を掌握したからこそ邪馬台国は強大になれたし
後に東征することも可能になった
特に鉄原料が国産化されておらず弁韓からの輸入に頼っていた時代には、海運を制するものが圧倒的優位であった
このひたすらコピペしてる人って何?
荒らしして楽しいの?
推測まじりの伝聞の伝聞のそのまた伝聞ってレベル。
こんなもんをソースにしてる時点で、アホかと。
その後に統一国家が出来たときに卑弥呼の国は明らかに滅んでるだろ
魏の一つ前の漢音はネットで知れる
邪馬壹国は素直に読めば「ジャバイー」となる
日本人はヤマトバイアスが強烈すぎて「ジャバイー」を無視してしまう
これいかがなものか
>邪馬壹国
その字は異説というか少数説だからなあ…
三国志が日本についての記述で最古のものっていっても
当時の版のものが残っているんじゃなくて原稿の三国志は
12世紀の刊行のものだし…
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国(免田式土器?)が対立
3~5世紀 奈良の纏向遺跡(前方後円墳発祥?) おそらく奈良を中心とした出雲・北陸・東海・吉備等の連合政権、北九州との交流は非常に乏しい
5世紀 奈良の大和王権が北九州~南東北を平定 雄略天皇=ワカタケル大王
4~8世紀 熊本の球磨川流域と宮崎の一ツ瀬川流域以南に独自の古墳文化(熊襲)
6世紀 継体天皇即位、大伴氏が半島にあった領土を割譲、筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 聖徳太子が軍隊を半島に派遣、乙巳の変、歴史書を新たに編纂
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる
なんか把握が静的なんだよな
北部九州勢力が南に侵攻したから紛争が起こったとすれば侵略地にいくらか免田式土器があってもおかしくはないだろうに
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
>板での結論
そんなものはない
それならハングル板での結論は
「倭人の分布範囲は南朝鮮半島から北九州」と言えるが
学会ではこんなの採用されてない
神功皇后は三韓征伐したってことを史実に含めることになる
広開土王碑にはそうかいてあるけどな
×やまたいこく
○やまとのくに
だから大和国=奈良
邪馬台国だしな
ちょっと前から日本でも必死に物色してたようだけどグダグダでオワタ
もともとアマテラスの遠い係累かまたは赤の他人だと思われるね
少なくとも崇神にとって朝廷の祖先など役立ずだったのはハッキリ書いてある
これが初代の大王(それ以前は架空と無関係)だよ
崇神が旧勢力を追放した革命児だったのが良く分かるね
・卑弥呼:紀元後240年あたりの生まれ
普通に考えれば、卑弥呼は九州地方の
一豪族っていうのが妥当な線だろ。
日本書紀とか古事記って大化の改新以降、捏造されたファンタジーやで
魏志倭人伝なぞ、いい加減な伝聞と憶測に基づいた
便所の落書きの類だろ。
なにが「普通」なの?
王家の正当性を示す歴史書で完全なウソは書けないと思うのだがどうだろう。
そもそも、元が何なのか、どこから来てどうやって統一したのか意味わかんなくね?
神話の話されても
元々何が天皇家なんのよ?ってずっと疑問だわ
何度も言うけど、今の天皇と闘ったら誰でも勝てるだろ
お前、社長に喧嘩で勝ったら社長になれるとでも思ってるの?
今の理屈より、昔なら力があればやるだろ
しかも基盤がまだ整ってないならとって変わろうとする人は居るだろ
初期の天皇ってどんだけ強いんだよってみてみたわ
完全にウソだと思うよ
神武の後ろに欠史八代で誤魔化してる
数百年も前なら何書いてもバレ無いからだな
実際には九州と限りなく縁の薄い赤の他人レベルの崇神が三輪の土民を制圧した侵略者でしょうね
崇神の血統がトンデモなく低いので九州の貴種とデッチ上げた
その苦肉の策が神武ですな
ではそもそも三輪土民を制圧するほどの崇神の軍事力はどこから来たのか
中国人又は朝廷系倭人で何処かの豪族と組んだのでは無いかと思うね
高天ヶ原から葦原中国に降臨したニニギは阿多隼人族コノハナサクヤヒメとの間に山幸彦と海幸彦を授かる
ヒコホホデミ(山幸彦)と海人トヨタマヒメの孫であるイワレビコ(神武)はヒムカ(日向)の地で阿多隼人族のアヒラツヒメ(海幸彦の子孫)を娶り、子のタギシミミを従え東征
道中で出雲族イスケヨリヒメ(大物主の娘)を娶り、ヤマトの橿原宮で即位した
隼人族ががっつり系譜に組み込まれてるのが興味深い
中国が迎えたとは思えんよな
愛らしい、小さければ小さいほど愛らしい
それより200年後のことすら
まったくわかってない
直近の聖徳太子も近年複数人物という話に
邪馬台国や古代の天皇は神話だと思ってる人たちも、聖徳太子や大化の改新になると史実だと思ってるよね
大化の改新が無いってなるとそれは日本の歴史ってなんなのってなると思うけど
無かったの?
つまり、魏志倭人伝の記述もいい加減ってことだよな。
しかし、九州北部の地理が正確で
金印もあるから、そこそこの正確性は
うかがえる
九州北部の王国が消された奈良の日本古代史より
信用できる
近畿の歴史が記載されていない魏志倭人伝が
正確とは、驚いた。
ヒミコと現天皇家とは繋がってないだろ
中国の儒教からコピーしてるんだから
400年以前にはその呼称はこの世に存在しない
ちゃんと大王と証拠がでてる
卑弥呼はヤマト王権の初代の王となって、誠にすっきりする。
天皇としては崇神が最初にしても、「天皇」表記がつけられたのは律令時代だし大王(オオキミ)
表記がつけられたのは5世紀だ。崇神の時代は単なる王だった。
つまり、初代:ヒミコ、2代:トヨ、3代:崇神となる。
ただ崇神期になると、四道将軍の派遣の記述が示すようにより武力を背景に全国制覇を進める姿勢
が顕著になる。王権もより強力になったことが伺える。実在した最初の天皇となったのはそうした
背景があろう。
邪馬台国とヤマト王権は中国の後金と清朝の関係に似ている。後金が統治したのは満州だったが、
清朝の創始は後金の創始をもってあげられ、後金の皇帝だったヌルハチとホンタイジも清朝の皇帝
として挙げられることが多い。
昭和の畿内説でワロタw
実現可能性ってどれだけあるんだろうか?
勢力図の全体像が提示されないと意味が無く無いか?
邪馬台国なる物を指針にする意味ってどれだけあるんだろ
【基礎知識1】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語で読む「シャマイ」国となる
・以降の史書に出てくるのは「邪馬臺」や「邪摩堆」であり、すべて語尾は「タイorダー」と発音する漢字が充てられている
・後世のヤマトは深く考えず邪馬臺=ヤマトと思って読んでいたが、新井白石と本居宣長が誤読に気付いたのが邪馬台国論争の始まりである
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国の市場を監視する官職として「大倭」と記載されている
【基礎知識2】
~ 中国の記録に記された女王国の規模 ~
魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭の国数は30国(後漢時代は100国あったが倭国大乱で分裂した?)
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
こういう文献って、他の文献では相当な制度であってるものなの?
都市名が書いてあるから検証されてないだけで方角がなんとなくあってるから無視されてるとかないん
中国史書の冒頭部分は基本的に過去から伝えられてきた伝承のコピペ
魏志倭人伝と魏志韓伝だけ1里=75mとなってしまうのは周の時代の記録のコピペだと思われる
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」
墓は大きく造り、大きさは約百歩、殉葬者は100人余り。
(参考:祇園山古墳)https://imgur.com/hQJWkqu
<倭における墓に関する記述>
其死 有棺無槨 封土作「冢」
※棺のみであり槨(石室など)は無いと書かれています
<卑弥呼の死に関する記述>
卑彌呼以死 大作「冢」 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人
どちらも同じタイプの墓であると考えられます。
つまり前方後円墳ではない。
あとツイやツベの歴史関連にもおる
これ豆な
雇い主は日本考古学会
学術学会みたいなものか?
その考古学会って
昔2chだったころ、奈良の考古学関係者が工作活動している話を奈良の知り合いから聞いた事がある
なるほど
興味深い話だねそれは
今も多いよ中韓工作員は
他にもいるけど
工作させてあげればいいじゃんw
とっくに見てるんだからwwwww
中韓工作員が邪魔してるの知ってる?
ミスリードと物色してんのを
結論ありきで
しかし中韓にとって何かメリットあるのかな?
韓国が半島南部が倭だったということを隠蔽しようとしてるのは知ってるけど
中国にとっては意味があるらしい
教科書問題で歴史認識を合わせる必要あるって
韓国は歴史無いからどんなに強くいっても、愛がないのかってレベルで話にならない
中国の教科書には「半島にはかつて(倭)人が住んでいた」と書いてあったそうだ
それを韓国政府が見つけて激怒したらしい「今住んでるのも人だ!」って
倭という字が抜けてたらしい
メリットというよりかは
お察し案件ですよ
[九州説] ・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な吉野ヶ里集落
・漢委(倭)奴国王の金印
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳 [畿内説] ・古墳建造のための施設
・古墳建造作業員向け食堂と思われる大型建物
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・木製の土木用具一式
・東日本で流行った仮面(木製)
・纏向建物と無関係な遺構で発見された桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具
けっきょくそういう意図は明白にあるよな
確実に存在した糸島博多あたりの九州王国(村落程度だとしても)
が消し去られて、大分や宮崎はちゃんとある
おかしいですね
簡潔に自分の意見ないの?
通報して欲しいわ
ちがう
出雲に上陸して南下
女帝国家は一代限りで男社会とは相容れない
大和は立派な男系継承国家だろ
なんだか男系すらも
じぇんじぇん自信なさそうだね
キミは
「ナイスですね」
国内だと日本書紀と古事記があるが、あれはファンタジーに近いからなぁ
魏志倭人伝って、現地調査でもやったのかい?
遠い国の話しの伝聞にしかすぎないだろ。
それがソース?W
魏の役人が直接、九州北部に来てたから
九州北部の地理が正確なわけ
そのほかの地域にはいってないようだから
距離とかそのほかの情報が不正確で
混乱のもとに
つまり奈良にもいってない
どう読んでも国名紹介などの記述が伊都国視点になってるんだよね
素直に読めばそうなるしかない
奈良中心史観はもうその時点で破綻してる
結局、そういうことだと思うよ。
魏志倭人伝に記載されているのは拘留があった九州のことだけ。
しかも伝聞と憶測だらけ。
それを日本全国(ていうか近畿)に適用しようとしたところに
無理があるんじゃない?
57年に漢委奴国王になった九州には
対馬ー壱岐の島伝いに、渡来人がたくさん来ていた
107年には、生口160人を連れて、対馬ー壱岐の島伝いに朝鮮に渡り、安帝に謁見した
壱岐島と九州本土は、200年以上に渡り、渡来人も倭人も、頻繁に行き来していた
なのに九州の上陸地点が
草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない
なんてわけがねーだろーーー
邪馬台国と違って九州には
壱岐よりも立派な港と港町と街道が、きちんと整備されとるっちゅうねん
船着き場は松浦だったみたいで
そっから陸路で糸島博多にくるとき
そういう風になるのは
いま現在でも体験できるよ
松林だからね
前も見えないし、草刈してなきゃ草ぼうぼう
九州の船着き場は大きな港です
漢委奴国王の港ですから
だから座礁する博多湾、今津湾ではなく
唐津、松浦のほうが港だったんだろ
だから
当時の唐津、松浦は
「草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない」なんてところじゃねーよ
九州は「草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない」なんてところに上陸するようなところでは無い
おまえ統合失調症だろ
松浦から糸島に来るには
松原をずっと歩いて抜けてくしかない
松浦から糸島には
漢委奴国王が整備した
さぞかし立派な街道が
あっただろう
ないね
草をかき分け歩かされたと
中国役人の愚痴が書いてあるだけ
つまり
九州には上陸していない
中国役人が実際に歩いたから
詳細な道中の様子が書いてあるんだろ
そういう事です。
邪馬壹国も行っていない。
水行、陸行の日数で終わる。
「俺らは海を越えたこんな遠い国と親交があってソイツらの首領を王に封じたんだぜどうだ魏王朝はすげえだろ」
って歴史書しかソースが無いのがなって意味で言ってるんだよ
いや、それで十分じゃねえの?
古墳などの発掘調査もされてるよ
物的証拠からわかることは
・北部九州の王朝は邪馬台国より前の時代に衰退してる
・邪馬台国の時代以降は、九州の出土品よりも畿内の出土品のほうが格上で畿内のほうが権威が上
・そもそも邪馬台国の時代以降は畿内にしか大王の墓がない
■魏志倭人伝を読む上での注意事項
・中国既存の記録に倭人からの情報など最新情報を追加した文書構成である
・卑弥呼時代に朝貢が再開されるまで、中国は投馬国や邪馬台国という国名は知らなかった
・水行○○日の行程は、魏に朝貢した倭人からの説明を引用したものである
・投馬国とは、半島南部の呼び名である
・邪馬台国とは、対馬海峡を渡った先にある北部九州一帯の呼び名である
・水行の起点は帯方郡である
https://imgur.com/X5UppCx
例)朝貢に来た倭人曰く
・(郡を出て)南に船で20日ほど行くと投馬国に至ります。
・さらに投馬国から南に海を渡れば邪馬台国です。
・そこに女王の都があります。
・郡から計1か月ほどの道のりとなります。
この記録を陳寿なりに解釈して倭人伝に記載したが、出発点や里数の表記が無く、
位置関係がわからないので、とりあえず不彌国の後ろに追記しておいた。
■参考
魏略で引用されている廣志では「邪馬臺国」の位置は伊都国の又南と記載されている。
そこまで言うなら、君は「三国志」を原文で読みこむぐらいのことは
やったんだろうな?
お前が読んだことないからそう疑う気持ちになるんだろう
読んでたら俺の言ってる意味が分かるはずだ
わからないなら中文を漢文と勘違いしてる低脳と認定
お前はどの文献をどう読んで何を言ったんだ、なにを立証したんだ、
学者先生様よ?
これはその視点が西にあることを意味している
つまり九州だよ
女王国の東の海を渡るとまた倭種の国々があると書かれている
奈良(おそらく河内)はその中の一国だったと考えられる
どうでもいいが>>180に乗せてる図は高頻度で投稿禁止にされてしまう
丹あり、橘ありの記
女王国の東が三重の志摩だから
東の海を渡るとまた倭種の国々、浜松あたり。
女王国の南に狗奴国。
人間の祖先はやっぱ人間しかいないんでは
だとしたら天皇家は古代に日本を統一した人間の子孫と考えるのが普通だよね
その地が大和であって、邪馬台国はまた別物なのでは
または邪馬台国が制覇しながら東征して奈良の地に首都を置いたというのが自然な気がする
神話の話なんか一般人にとっては関係ない
いつ、何処から来て、どうやって統一したのか知りたい
古墳も山ほどあるけど、発掘してもなんも出てこないんだろな
クリスマスパーティをしてるときに、「サンタなんて信じてるの?」
プロレスの話をしてる時に「あれって八百長なんだよ」
とか真顔で言ってこられる感じ。
神の語源はおそらく「漢委奴国王」の「漢委」
アイヌ語では神をカムイと発音するが「漢委」ならカムイとも読めるし
「『大和』なんて生意気だ『邪馬台国』にしてやれ」
2000年後のチャンコロナ
「東京オリンピックなんて生意気だ、コロナ撒いてやれ」
U ・ω・) これがリアル。
しかし、国家の定をなすオッサン社会どっぷりな大和を卑弥呼が関与するには無理あるでしょ
日本古来からある女性を崇める文化とオッサンが政治する文化は異なるように思うよ
今の日本の根幹は女は3歩後ろ歩けでしょ
それは中国発祥の儒教思想だよ
律令でおかまの宦官が権力もって
さらに強化され、それが朝鮮に伝わり
さら日本にも来た
だから古代日本にはそういう風習はない
日本語は間違いなくツングースだ。
ある時代までは中原にいたのに、新しく東アジアに来たシナ諸語によって大陸から押し出された。
他のツングース語はバラバラにしか残っていない。
古いものは新しいものに駆逐されてしまう。
ヨーロッパにおけるバスク語やケルト語みたいなものだ。
古いものの方が多様性に富んでいる。
新しい言葉である英語が、印欧語族のなかでももっとも単純なつくりであるように。
モンゴル語と朝鮮語と日本語がここまてで異なっているのは
互いにそれだけ古い言葉であることを示している。
中国儒教、律令が元だから
400年以前の日本には存在しない
あるわけないよ
コピー元、オリジナルが400年以降なんだから
幅5m、深さ1.2mの水路が総延長2.6キロにも及ぶもので
おそらく大和川につながり運河として利用されていたと思われる
こんな特徴的なものが、「魏志倭人伝」には一言も書いていない
中国役人は九州北部にいたのであって
奈良には来てない
ようするに中国からみた奈良は
当時はその程度の扱い
遣唐使も日本はかつて小国だったと言っている
<旧唐書>←倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
◆倭国条 ~631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
※漢委奴国王の金印は福岡で発見されている
◆日本条 701年~ (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。
これでいくと、
倭国は古奴国であって
古邪馬台国ではない。一時的に邪馬台国の
2人女性が倭国の王になったと解釈。
倭人伝はどうみても九州だよな。
奈良に来るのなら瀬戸内海を東進と書かれるはずなのに。
国譲りで、奈良が出雲を植民地にして
220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠して
出雲から朝鮮半島に渡れるようになった
国譲りで、奈良が出雲を植民地にして
220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠して
出雲から朝鮮半島に渡れるようになった
漢委奴国王の先進地域北部九州しか知らない中国の役人は
未開の地の出雲に上陸させられて
西も東もわからず奈良まで引きずり回された
国譲りで、奈良が出雲を植民地にして
220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して
238年 「公孫淵」が司馬懿に討たれて
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠して
出雲から朝鮮半島に渡れるようになった
漢委奴国王の先進地域北部九州しか知らない中国の役人は
未開の地の出雲に上陸させられて
西も東もわからず奈良まで引きずり回された
ちなみに
漢委奴国王の先進地域北部九州には、
公孫氏の役人や軍人が
楽浪郡と帯方郡から命からがら逃げてきて立てこもり
鎖国状態
いきなり大和説を再び持ち出した感があるな
畿内はこれがあるから邪馬台国なんてどうでもいいんだがw
https://www.youtube.com/watch?v=HyWH5uripn4
日本の権力は
奈良で強大化したのはそれでわかるが、
古代九州王国がなくなるのも
リアルな歴史ではおかしい
九州説 「いや、九州だ九州だ 史書を見ても九州しかない」
畿内説 「じゃあ そういうことで」
九州説 「まだだ、まだ終わらんよ」
畿内説 「・・・」
じゃあ九州北部の地理だけ正確で
あとはデタラメになるわけない
奈良まできっちり書かれてるはず
奈良がメインだったらな
バーカ
攻められる可能性を考えれば情報は極力与えないのが常識だ
故に奈良だった可能性が高い
対馬ー壱岐の島伝いに、渡来人がたくさん来ていた
107年には、生口160人を連れて、対馬ー壱岐の島伝いに朝鮮に渡り、安帝に謁見した
壱岐島と九州本土は、200年以上に渡り、渡来人も倭人も、頻繁に行き来していた
九州は「草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない」なんてところに上陸するようなところでは無い
港は松浦、唐津
王国は糸島、博多
その道中は松原で前も見えないし草ぼうぼう
こういうことです
はいはい
松浦から糸島に来るには
松原をずっと歩いて抜けてくしかない
57年に漢委奴国王になった九州には
対馬ー壱岐の島伝いに、渡来人がたくさん来ていた
107年には、生口160人を連れて、対馬ー壱岐の島伝いに朝鮮に渡り、安帝に謁見した
壱岐島と九州本土は、200年以上に渡り、渡来人も倭人も、頻繁に行き来していた
松浦から糸島には
漢委奴国王が整備した
さぞかし立派な街道が
あっただろう
そもそもグーグルマップ見ればわかるけど
街道作るような平地のほうが少ないんだよね
いま平地になってる場所はかつて海だから
山の斜面の松原の中の小道だね
だって山を崩すような道具はその当時ないから
沢山は来てないと思うぞ
技術的に対馬海流は渡りづらい
日本からは海洋縄文人がいたから少しはあると思うぞ
181年にニュージーランドのタウポが破局噴火を起こしてことが判明している。
タウポの破局噴火の影響で世界中が寒冷化し、大飢饉が起きたと考えられる
黄巾の乱は184年
卑弥呼が女王になったのもこの頃
大和朝廷とはなんの関係もなかった
ってのが一番つまらん結果やな
地方の自治一国家だもんな邪馬台国
中国の認識に対して日本の使者が口籠ったのは
古くから中国によく知られた九州の国が、
大和盆地の国からすると本来的な嫡系だったからだ。
奴国ではなく倭国のほうだが
九州の倭国がいつ滅亡したのかはさっぱり分からない
男系では同じ王朝だがな
長かったなあ
広い筑紫平原、大陸との交易の窓口、日本海交易へのアクセス地、豊かな漁場、温暖な地形
大和=奈良説だと、奈良盆地となるが、奈良盆地には大勢力を養う土地が無い、外部との交通の便も悪く交易地としては何も無い、よって外部への影響力も少ない、戦国時代もモブ扱いだったし
北九州として奈良盆地の勢力の下につく理由は無い
安芸や吉備、播磨に讃岐達も大陸の高度な文化との交易地と、山里の零細勢力と何方に付くか考える必要も無いだろ
卑弥呼の頃は、北九州が日本の顔だったのは間違いないね
卑弥呼は独身だったと書かれている
まあ巫女だから当たり前だね
「日本書紀」の作者は、神功皇后記に「魏志倭人伝」を当たり前のように引用してるから
邪馬台国が奈良であることと神宮皇后と卑弥呼が同一人物であることは疑ってすらいない
> 「日本書紀」の作者は、神功皇后記に「魏志倭人伝」を当たり前のように引用してる
フェイク情報書き込むのは犯罪ですよ
???
フェイクじゃないけど、引用されてるよ
神功皇后が朝貢に出したという話だろ?
100歩譲っても時代が100年ほど合わない
記紀には中国の使者が来た話も、金印を貰った話も出てこない
時代は合ってるし
引用したのも事実な
とくに女王になった時期は卑弥呼と神功皇后はほぼ同じ
死んだ時期は違うけどね
確定的に言い切ってるけど、それお前の想像じゃん
受け売りとか
とにかく「日本書紀」の作者が神功皇后記で魏志倭人伝を引用してるのは事実な
お前は「日本書紀」の作者は何も考えずに引用したと思っておけw
そんなもの天皇の寿命が100歳以上だったのと同じレベルの信憑性だよ。
行田市とか
埼玉県行田市の稲荷山古墳から稲荷山古墳出土鉄剣というのが出土してる。
つまり、埼玉が倭国(日本)に支配されたのは5世紀で
5世紀以前は埼玉には倭国(日本)以外の国があった
文字がなかったので記録にはまったく残っっていない
元は、毛人の国。
で、その毛人の国は何って言う国なの?
記録が残ってないでしょ
宋書倭國伝 「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」
てのがある。
律令制の前だから、個別の国名はわからん。
魏志の時代では、筑紫も豊国、出雲も登場しない。
もっとも大陸に似ている。
新しい人々はかなり移動したが、古い人はほどんど動かなかった。
初期の渡来人は九州で最初の都市国家を作ったが、
九州全体の遺伝子プールには近畿四国ほどに大きな影響を残さなかった。
天皇家は周王室につながるからね。
縄文系Y染色体なのに?
そうなら、日本語は中国語系の言語になってたし、
もっと古い時代から、漢字を使ってた。
松原をずっと歩いて抜けてくしかない
57年に漢委奴国王になった九州には
対馬ー壱岐の島伝いに、渡来人がたくさん来ていた
107年には、生口160人を連れて、対馬ー壱岐の島伝いに朝鮮に渡り、安帝に謁見した
壱岐島と九州本土は、200年以上に渡り、渡来人も倭人も、頻繁に行き来していた
松浦から糸島には
漢委奴国王が整備した
さぞかし立派な街道が
あっただろう
なのに、上陸したのは
草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない
ところ
上陸地点は完全に別の地域
広い街道なんてできないよ
グーグルマップ見てみろ
いま平野になってるところはかつては海
山の斜面の松原の小道の描写だよ
その当時、山を崩して平にする道具がない
立派な街道が広い街道とは限らない
しかし
立派な街道は
草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない
なんて道では無い
少なくとも
107年には、生口160人を連れて、隊列組んで歩けている
松原の中の小道はいまでもあるから
実際に歩いてみろよ
前見えないから
いま公共事業で下草刈りをしてるけど
当時してるわけないから、
それに草ぼうぼうが足されてる
もうあきらめたら?
松浦か唐津から、糸島博多に
中国役人が松原通って歩いてくるときの
正確な描写だ
300年間誰も出来なかったことができたよ!
斯馬国(しまこく) 筑前国志摩郡 ◎ ※”しま”は当然島の意味
已百支国(いおきこく) 薩摩国日置郡 △ ※音は似ているが位置が女王国の範囲外 “ひおき”の語源は暦を作ることを日を置くといった。日置の地名は宮崎と熊本にもある
伊邪国(いやこく) 北高来郡諫早村 〇 ※伊佐早の由来は傾斜地が多く石が早く転がることから 石が早い国
都支国(ときこく) ? ※鳥が来(きた)る国という意味であろう。つまり渡り鳥の渡来地か
弥奴国(みなこく) 肥前国三根郡 ◎ ※”みな”は峰の意味。現在の三養基郡上峰町 肥前国風土記にも三根郡として出てくる
好古都国(はくとこく) 博多 〇 ※博多の語源は”羽形”。”好”の音は”こ”ではなく現代中国語のように”は”であろう。古代人があの特徴的な地形を地名にしないことはありえない
不呼国(ふここく) 肥前国杵島郡須古村 〇 場所は違うが岩手県の巣子(すご)の由来は鷹の巣から雛鳥を捕ったことから ”す”が発音上の理由で”ふ”に聞こえたのか
姐奴国(そなこく) ? ※意味はやはり巣の国であろう。脊振山地周辺にあった可能性あり
対蘇国(とそこく) 肥前国鳥栖郡 〇 ※鳥栖の語源は鳥の巣
蘇奴國(そなこく) 肥前国佐賀郡 〇 ※”そ”の国とは対蘇(鳥巣)からやはり巣の国の意味であろう ちなみに佐賀の語源は栄の国
呼邑国(こゆうこく) 日向国児湯郡 〇 ※児湯の語源は子のための湯、つまり産湯が沸いていた
華奴蘇奴国(かなそなこく) 肥前国神崎郡 〇 ※かのその国とは鷹の巣の国という意味であろう
鬼国(きこく) ? ※意味は木国あるいは黄国。ちなみに佐賀と長崎は土壌が赤黄色土である
為吾国(いごこく) ? ※猪の子の国という意味であろう。猪がたくさんいた地にあったということ
鬼奴国(きなこく) ? ※木の国か黄の国。黄の国のパターンだと狗奴国は黒の国(火山灰で黒かった?)
邪馬国(やまこく) 豊前国宇佐郡耶馬渓 △ ※八女の可能性もあるが邪馬台国が八女のあたりだと思われるのでこちらにした
躬臣国(くじこく) 豊後国玖珠郡 〇 ※玖珠の語源はくすの木
巴利国(はりこく) 朝倉郡杷木町 〇 ※杷木の語源は川岸や崖地を意味する”はき”
支惟国(きいこく) 肥前国基肄郡 〇 ※場所は違うが紀伊の語源は木国(きのくに)
烏奴国(うなこく) ? ※鵜(う)の国の意味か。鵜飼いといえば筑後川と日田だが。弥生時代に鵜飼いをやっていたかはまだ不明らしい
奴国(なこく)日向国那珂郡 〇 ※”な”は川の意味 現在の佐土原町付近 福岡の奴国の比定地にも”那珂”川がある
◎ – 確実または極めて有力
〇 – 有力
△ – 微妙
? – 該当地不明
ネットで調べて自分なりに考えてみてたんだけどどうしてもわからない国が多かったんだが
“そ”が”巣”の意味だとわかってからはなんとなくパターンがわかって残りも全部一気に解けた
これを見ると旧肥前国というか脊振山地に鷹がたくさんいたらしく、倭人伝には鷹の記述はないので少なくとも邪馬台国はこの辺にはないということ
国名に鳥の由来が多いので邪馬台(やまと)国も山鳥(やまと)国だったと思われる
ただ、ヤマドリ(山鳥)は深山にいる鳥なんだが雉がいるとあるんだがこれは平野部に棲む鳥なんでこの点が問題になる
鳥のトの音は門や戸と違って登や跡や等と同じ乙類のトなので矛盾しない
ヤマドリの多い場所が邪馬台国の所在地のヒントになるかもしれない(八女郡矢部村の村鳥がヤマドリだった!)
鳥が解読の鍵だったんだなと感動している
おまけ:
一大国(いきこく) 壱岐 ※大は支の間違い “いき”は雪の意味 砂浜が白くて雪のようだったらしい
末廬国(まつらこく) 松浦半島 ※”まつ”は末端、”ら”は浦の意味 つまり末端が浦になっている国
伊都国(いとこく) 糸島市 ※”いと”は古い日本語で鼻の意味 その形状から岬の意味 つまり岬国
不弥国(ふみこく) 宇美町 ※少し内陸なので海(うみ)国は不自然 宇美町に炭焼という地名があるので不呼(ふこ)→須古(すこ)のパターンから炭(すみ)国であろう
投馬国(とまこく) 西都市妻 ※”とま”は古い日本語で苔とか湿原の意味 つまり苔国
当時の大の大人は「毎時500m」でだったので
全然歩けず たかが九州の端まで歩くのに1ヶ月かかったらしい。
毎時500mって相当な重病人くらいだぞ。
「両足骨折」で松葉杖でも達成できる速度
整地して靴履いてるからだろw
整地してない石ゴロゴロ、草ぼうぼうの
ところ裸足で長距離あるくとき
慎重になるわな
怪我するし
だから毎時500mは松葉杖でできますよ?
草ぼうぼう? 石ころだらけ?
街道がそんななのか? 山のイノシシですら獣道くらいつくれるのにw
そもそも石ころだらけで毎時4km普通に出せるし
山道で富士山登るのですら3kmは出る
標高1000kmの山の登山でも1ヶ月歩いたら九州は必ず出る。
名古屋くらいまでは普通に行ける。
それとも当時の地球は1日が6時間周期で4回あったとか?w
魏志倭人伝って倭の王族や魏の偉い役人の話なんで
各地でもてなされたり、各地で政治を行ったりしながら移動するので
移動に時間がかかる
神武のお墓は仁徳天皇陵
橿原の御陵は饒速日(皇統)
娘が箸墓の姫
邪馬台国は両毛付近だろ
毛人の国だよ
魏志倭人伝をそのまま読むと、卑弥呼の墓は円墳
しかし、箸墓古墳は前方後円墳
Googleマップで↓検索
宇治山田神社・那自賣神社
徑百餘歩 は形状を説明したものではなく大きさを表したものなので、これで円墳と断じることはできない。
ただ当時の小柄な人間で径百歩だからせいぜい70m程度
200~400mの大型古墳は候補から除外すべき
前方後円墳って墓は円墳部分だけなので墓の部分は円墳だけどね
記紀は藤原氏(百済系)が魔改造した歴史書
百済人は難民やで
百済は高句麗への対抗上、倭国の支援が欲しかった
倭国は朝鮮半島の鉄が欲しかった
高句麗の好太王碑には、倭が百済と新羅を臣下に
したと記されている
藤原氏なんて所詮二流止まりだった=中臣
新羅に国を追われた難民を取りまとめ
大化の改新で物部の仇を打ってからが
やりたい放題ですわ
■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
『倭』 19首(1)
『山跡』 18首
『日本』 14首
『夜麻登』 5首
『八間跡』 1首(1)
『也麻等』 1首
『夜萬等』 1首
『夜未等』 1首
万葉集のヤマトではカモメが飛んでいたとのこと
↓
大倭(オホヤマト)には 群山あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。
可怜し国ぞ。
あきづしま大倭の国は。
ヤマトって単に山戸だよ。山の入り口みたいなもの。
日本のどこにでもある地形だし、一般名詞を国名にしたようなもの。
ヤマトという国名は位置推定には全く関係ない。
ナガト=長門だからヤマト=山門とも言える
『奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏は、邪馬台国は本来
「崇敬な山の入り口」の意味の「山(やま)門(と)」だとする説を紹介し
「邪馬台国が九州にあった可能性は高い」との見解を示した。』
九州にあげるわ
すべての関西人がそうならいいんだけど、
一部の関西の学者が狂信的だから、議論にならないんだよ。
本来なら九州のどこかで議論したり、発掘すべきだが
それが進まない。
当時、吉備とか出雲とかに九州に匹敵する文化圏があったはずなのに、
それには言及がなく、いきなり畿内に飛ぶわけないだろう。
900年古い
古代日本に天皇なんていない
パクり元の中国律令が400年なのに
それ以前に存在するわけない
というか漢字すら使ってないしw
いい感じはするよ。
魏志倭人伝は、多分九州北部まで来た魏の役人が、そこの日本の役人の
適当な話を適当に聞き書きしただけの報告書に過ぎんのだろ。
「邪馬台国は、ま~、ここから(瀬戸内海を)水路で行けば10日、
(山陽道を)陸路でいけば一月くらいですかね~。」
みたいな話を報告したんじゃないか?
魏志倭人伝の記述は間違いなく絶対に正しいの?
九州北部の地理だけは正確
つまりそこに中国役人が居た
奈良には行ってない
九州北部以外の説明がデタラメだから
奈良は当時は中国からみてメインの場所ですらなかった
これが奈良盆地にあったてこと
せいぜい小国があっただけだろ
どちらかと言うと、卑弥呼より神話の時代の話の方が九州っぽいと思うけど
なんか色々混ぜてる感じがする
なんか後ろめたいことあったのか?
だから小国30国が集まったのが邪馬台国連合
それでも南の狗奴国に負けそうなので、助けてくださいと使者を送った売国奴が卑弥呼
>助けてくださいと使者を送った売国奴が卑弥呼
これが卑弥呼が日本の歴史から抹消された理由だよな
クナ国に滅ぼされたな(-_-)
壹与もいるからね。一旦引いて
神功皇后時に再度攻める。
武内とスキャンダル。神功が抹消される。
武内が筑紫国を樹立
続き、九州系天皇が出る。天武天皇系譜が続き
記紀が編纂。卑弥呼を消す
30国で連合してもクナ国1国に勝てずに卑弥呼の死のゴタゴタで使者も魏に帰ってる
そこで女王が朝貢した記録は途絶えて150年以上の暗黒時代を迎える
普通に滅んでるでしょこれ
おいおい、それじゃ日本で古代やってるアホ学者の言い分そのままw
まず、後漢書の情報では、漢に倭国代表として朝貢していたのは
奴国(博多)だ。「漢倭奴国王」の金印を貰ってる。
ところが、魏の時代、魏志倭人伝でバレたのは、奴国は倭国代表でも
何でもなくて、単に邪馬台国配下のクニ(国)だったという事!
ってことは、漢の時代の列島覇権国は邪馬台だったってことだ。
邪馬台は自らは漢の臣下には成らずに、しかし朝貢の利と漢の権威を
背景に列島に君臨したという事が推測できる。
しかし、邪馬台は倭国大乱で負け、女王を立てた。=覇権放棄だ。
女王=剣を持たぬ王、つまり誰かの軍門に下ったという事。
それが証拠に、卑弥呼の死後男王が立つも戦になり、女王に戻した。
で新覇権国はどこ?
そりゃ、新たに博多港を押さえて監理している謎の勢力「大倭」だわ。
邪馬台の配下か何かのように偽装してるが、倭国代表邪馬台の配下が
邪馬台を差し置いて「大倭」を名乗る筈もなくw この大倭こそが
倭国大乱で邪馬台を下した新覇権国だとわかる。
で、漢への朝貢を担った奴国を港の管理から外し、お目付け役の
ヒナモリまで置いて監視している。
はて、大倭? そう。後に「大和」に改字する畿内勢力だわな。
邪馬台は魏に助けを求めたのではない。大倭(畿内)の列島覇権確立
の為、魏に朝貢に行かされてたんだわ。名ばかりの倭国代表として。
なお、女王「共立」とは、実は30ヶ国が共立したのではなく、そういう話に
して、倭国王として魏に認めされることに意義があった。
共立と言うのは、日本だけじゃなく、朝貢国の方々で出て来る。
つまりその地域に異論がないと示し、その地域を治める王として認めて
もらう為にする話だ。
実際は共立でも何でもなく、倭国大乱で畿内に負けて和議条件の覇権放棄を
飲まされたに過ぎない。
金職人が「漢倭奴国王」の金印は偽物と言っている
字体と彫り方がその時代のものでないそうだ
実物の金印の方はどうでもいい。
大事なのは記録の方だ。
見つかったのも古代史ブームの時だしねえ
さすがに奴国の位置に異論はないだろw
魏志倭人伝に邪馬台国が大国なんて書いてないだろう。
当時、畿内に大国があったかもしれんし、それは否定しないが、
単に魏の役人が知らなかったか興味なかっただけ。
関西人の学者のおごりは、古代の日本は畿内以外は野蛮人だと思っていること。
結果的に畿内が統一国家を築いただけで、他にも国家があったということだよ。
それは間違いないな
いちおう中国から国として認められる
地域が九州北部にあったわけだから
あっただろ
邪馬台国(奈良)と狗奴国(滋賀)が争い邪馬台国が勝って超大国になった
それが「国譲り」の内容だからな
>単に魏の役人が知らなかったか興味なかっただけ
逆だ。畿内の政権の方が外国に興味がなかった
自分たちでやっていけてるから
外国に頼ろうとするのは、国内では負け組。
邪馬台国も魏の属国を示す黄色の旗をもらい、塞曹掾史の張政なんて軍事顧問を派遣してもらってるんだから
外患誘致そのもの
卑弥呼は今でいえば福島瑞穂
社民党がなくなりそうなので、中国を訪問。習近平はよろこんで瑞穂に「親中倭王」の称号を与えた
その記録を後の人が読んで、当時の日本は福島瑞穂が支配していたと勘違い
そんなんだよね。
畿内は畿内で誇り高き古代史があるんだから、
魏志倭人伝に固執せず、勝手に研究してほしいよ。
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
松原をずっと歩いて抜けてくしかない
57年に漢委奴国王になった九州には
対馬ー壱岐の島伝いに、渡来人がたくさん来ていた
107年には、生口160人を連れて、対馬ー壱岐の島伝いに朝鮮に渡り、安帝に謁見した
壱岐島と九州本土は、200年以上に渡り、渡来人も倭人も、頻繁に行き来していた
松浦から糸島には
漢委奴国王が整備した
さぞかし立派な街道が
あっただろう
なのに、上陸したのは
草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない
ところ
帰還する難升米等に同行して邪馬台国に向かった建中校尉梯儁等は
ここはいったいどこなんだ状態だっただろう
立派な街道なんてないよ
山の斜面の松原の小道
当時に山を崩す道具はない
そして街道作るための平地もない
完全論破されたのに見苦しいよ君
だから足つかわなくても匍匐前進で毎時500m出せるってw
1ヶ月ずっと崖でも登るのか?
街中をほふく前進で進む男。一体なにをしているのか?
匍匐前進の速度は毎時800mな。
カメの速度が毎時300m
邪馬台国九州説の当時の九州人の速度が時速500m
カメの2倍もない。
今の小学6年生は時速2.8-3.2km
お薬飲んで寝たら?
北部の地理以外は不正確だから
距離とか方角がデタラメだから
混乱してんだろ
匍匐前進の実験では毎時800mだそうだ
https://nikkan-spa.jp/1577937
短里説で1月で九州以内にするには毎時500m 1日4kmとかになる。
カメが毎時300mで
今の小学生が2800-3000mですね。
毎時500mは「足がない人」とかの速度
裸足で整備してない山の斜面の松原の小道を
何十キロも歩くとき、平均時速は1キロ以下になっても
おかしくないね
時速1km? 九州の人間ってあるかないのか?w
元気な5才児で田んぼの畦道でも時速2km出せるぞ。
平地だと思ってるからだろ?
グーグルマップの航空写真で
松浦から糸島までをじっくりみてみなさい
平地に見えるところは当時は海な
そうするとギザギザ山の斜面を松原しか
歩くところないじゃないか
平均1キロ以下
そうなるだろ
平地で靴はいて4キロなんだからw
山とか歩いたことありますか?
「人間が時速1km」とか言ってる時点で終わってるんだが
その速度を出せるのは3歳まで
「赤ちゃんのはいはいの速度が時速1km」
時速1km以下は2本足でそもそも出せる速度じゃない。
整備された山道しか歩いたことないだろ
松原で前が見えない下草ぼうぼうの山道を
裸足で歩いてみてよ
魏志倭人伝には邪馬台国の人は裸足と書かれてはいるものの、吉野ヶ里とかで木製の履物は出土してる。
高貴な人のファッションなんじゃね?
吉野ヶ里って当時の最大の集落だろ
吉野ヶ里の方が有名だからそっち書いたけど、那珂久平でも出てる
みんな靴履いてるなら履いてるって書くだろ
九州北部には確実に居たわけだから
陳寿が冬の記録を見ていない事がわかる。
会稽の季節と入れ墨文化から南と思っている。
合わす為に方向を書き換えたと思う。
57年には、後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り
107年には、生口160人を献じ、安帝に謁見した
特別、先進地域
238年になっても、たった10人しか生口を献じられず
港町もろくに整備されていないわけがわからないところに上陸する邪馬台国とは、根本的に違う
伊都国までは実際に足を運んでそこから先は行ってない可能性は高いと思う
明治とか以前の昔は古墳に簡単に入れたらしいって聞いたから、何にも、どこって無いと思う
それまでは言霊文化だったんだよな
日本には書面での記録が無いから中国のあっさり書かれた文献とあとは遺跡頼みというファンタジー
壱与が立てられるまでまた内戦していたからな
でかい墓を建てる暇がない
崇神は、壱与を倒して王統を統一したのだろう
箸墓は崇神天皇の陵だよ
> 箸墓は崇神天皇の陵だよ
俺もそう思う
邪馬台国論争に関係なく中を調べて欲しいよね